可以不是苹果的苹果,是苹果也无妨的苹果

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对苹果的执著

不能说苹果的颜色有多红,苹果只是苹果。不能说苹果的形状有多圆,苹果只是苹果。不能说苹果的味道有多酸,苹果只是苹果。不能说苹果的价格有多贵,苹果只是苹果。不能说苹果有多么美丽,苹果只是苹果。无法分类,又非植物,因为苹果只是苹果。

是开花的苹果,是结果的苹果,是在枝头被风摇动的苹果。是挨雨淋的苹果,是最终要被吃掉的苹果,是要被摘下的苹果。是落在地上的苹果。是要腐烂的苹果。是种子和冒芽的苹果。是没有必要称之为苹果的苹果。可以不是苹果的苹果,是苹果也无妨的苹果,不论是不是苹果,一只苹果就是所有的苹果。

红玉,国光,王铃,祝田,皇后,红先,一个苹果,三个五个一包装的七公斤苹果,十二吨苹果二百万吨苹果。被生产的苹果,被搬运的苹果。被称量被捆扎被取走的苹果。被消毒的苹果,被消化的苹果。被消费的苹果,被抹消的苹果。是苹果!是苹果么?

是的,就是在那里的,就是它们。就是那里的那个筐子中的苹果。是从桌上滚落的,被画到画布上的,被天火烧灼的苹果。孩子们把它拿在手上,啃它,就是它,它。无论怎么吃,无论怎么腐烂,它都会一个接一个地涌现在枝头,闪着光盈满在店头。是什么的复制品?是什么时候的复制品?是无法回答的苹果。是无法提问的苹果。无法讲述,最终只能是苹果,现在仍是……

作者 / [日本] 谷川俊太郎
翻译 / 田原
选自 /《谷川俊太郎诗选》河北教育出版社

りんごへの固執

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。

花咲くりんごだ。実るりんご、枝で風に揺れるりんごだ。雨に打たれるりんご、ついばまれるりんご、もぎとられるりんごだ。地に落ちるりんごだ。腐るりんごだ。種子のりんご、芽を吹くりんご。りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうかなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。

紅玉だ、国光だ、王鈴だ、祝だ、きさきがけだ、べにさきがけだ、一個のりんごだ、三個の五個の一ダースの、七キロのりんご、十二トンのりんご二百万トンのりんごなのだ。生産されるりんご、運搬されるりんごだ。計量され梱包され取引されるりんご。消毒されるりんごだ、消化されるりんごだ、消費されるりんごである、消されるりんごです。りんごだあ!りんごか?

それだ、そこにあるそれ、そのそれだ。そこのその、籠の中のそれ。テーブルから落下するそれ、画布にうつされるそれ、天火で焼かれるそれなのだ。子どもはそれを手にとり、それをかじる、それだ、その。いくら食べてもいくら腐っても、次から次へと枝々に湧き、きらきらと際限なく店頭にあふれるそれ。何のレプリカ、何時のレプリカ?

答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに・・・・・

谷川俊太郎
『これが私の優しさです』

 

“我们叫它一粒沙。 但它不叫自己粒或沙。
它就这样存在着,没有一个系统、特别、
短暂、永久、不确或切合的名字。
它不需要我们的顾盼,我们的触摸。
它不感到自己被觉察和触摸。
它掉落在窗沿这一事实
只是我们的、而非它的经验。
它掉落在任何事物上也是如此
并不证明了它已经掉落 或仍在掉落。
从窗口可以观看到很好的湖景
但是湖景本身是无法观看自己的
它存在于这个世界,
没有颜色和形状
没有声音,没有味道,也没有痛苦。
湖底对自己是无底的,岸对自己也无岸。
它的水对自己也是不湿不干的。
它的波浪也不感单一或个别。
这些波浪在既不小也不大的石头周围,
对自己那听若无闻的轻声细语轻声细语。
……”

辛波斯卡的沙子,谷川俊太郎的苹果。我们观看的事物,是事物本身吗?

这牵扯到两种世界观,前者认为,人与世界万物存在某种共性,存有一致的数学定理与物理规律,我们是三维空间+单向时间的生物,这个星球上的一花一草、一沙一苹果也是。

而另一种看法是,我们人类只能代表人类,甚至人类本身也会是相异的。我们所掌握的,仅仅是我们的观测结果,而在我们“目力”所不能及之处,苹果有苹果的维度,沙有沙的时间,我们其实无法推断,他者的世界究竟是何种面貌。

不知道科学家会怎么看待这些或许幼稚的观点。我只知道爱幻想的诗人,似乎没有理由放弃后一种。

你呢?

荐诗 / 松子
2018/10/23

 

 

题图 / André Britz

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